上の都合で悲惨な戦争へと駆り出されて命を使い捨てにされていく。
まともに栄養と休養を摂っている上流階級とは雲泥の差がある平均寿命。
汚く、臭く、みすぼらしい生活に大多数の人が苦しんでいたのです。
そういった状況ではもちろん、「ローマの休日」のような設定は出てきません。
だからこそ、この作品が1953年にアメリカ発で出てくるというのは、ハリウッドがアメリカにあるということを差し引いても納得がいきます。
世界で唯一「マス」としての中産階級が生まれ始めていた当時のアメリカ。
「普通=幸せ」という図式が人々の間に漂い始めていた時代。
若者は学校生活やモラトリアム的日々を通じ、現代的「青春」を謳歌するようになっている(人類の歴史においてティーンエイジャーの多くが労働していないというのは極めて特殊な現象です)。
そんな背景があって初めて、王族をこのような視点で見るようになるのではないでしょうか。
つまり、普通の若者らしい青春がなくて「可哀想」であると。
そこで初めて、「抑圧されている王族の若者」が街に出て自由とロマンスを謳歌する、という物語が生まれます。
その物語は、各国における中産階級の台頭と、王族の役割の増々の形式主義化(政治的権力が無力化され、儀式のための存在になっていく)、メディアの発達による王族取材過多により切迫感を増していきます。
まさに時代を「圧倒的に先読みした」脚本だったといえるでしょう。
「古典」たるべくして「古典」となっている作品であり、名脚本家トランボの面目躍如です。
そして、この「当時としては圧倒的に斬新だった脚本」はすなわち、「当時の役者たちにとって前例なき挑戦」だったに違いありません。
自分の頭の中に全くないパターンの演技を行わなければならないのですから。
しかし、抜擢されたオードリー・ヘプバーンとグレゴリー・ペッグの名演はもう言葉で形容する必要もないでしょう。
1カットでアドリブ撮影されたという「真実の口」での親密な演技。
「人生はままらないものだよ」に代表される名台詞。
王女と新聞記者として二人が向かい合う最終場面。
名場面を挙げたらキリがありません。
特に、アンが「王女として」記者会見に臨むシーンでの王女の話しぶりが個人的には好みです。
決められた台詞に準じながらも、所々で、王族としての抑制や中立性の範囲にぎりぎり踏みとどまりながら、自分の意見や想いを滲みださせるという話し方。
これは、現代の(政治からは形式的に独立している)王族に最も求められる技術の一つでしょう。
当たり障りのないことを話しているように見えながら、よく聞けばその人自身が政治や社会に望んでいることが行間を読める人には理解できる。
こうした技巧を駆使できなければ現代の王族は務まりません。
政治的な発言をしてしまえば国内に混乱をもたらしますし、かといって、全く政治的な意図が見えない発言ばかりでは敬意を維持できず存在価値を失うでしょう。
この直前の場面、本来の滞在場所に戻ってくる場面で、アン王女は「私が王女としての義務を理解していなければ永遠にここに戻ってこなかったでしょう」という発言をします。
そうです、アン王女には「できる限りローマの街を逃げ回り続ける」という選択肢もありました。
しかし、彼女は能動的に戻ってきた(王族という職業を自分の選択として選んだ)わけです。
「自由がない」と不満をこぼして脱走までした彼女をそこに引き戻したのは何だったのでしょうか。
それはまさに、「人生はままならない」というジョーの台詞でしょう。
自由じゃないのは自分だけじゃない、世の人は誰しもままならない事情に縛られながら生きている。
それを理解した彼女は、自分の責務を果たそうと王族という地位に戻ってきたのです。
これは想像ですが、彼女はようやく、王族としての仕事に自分の生きる意義を見出したのではないでしょうか。
その意義とはもちろん「ままらならない世の中をなんとかする」という意義です。
ヨーロッパ統合や貿易の促進、国際親善の発展が、まさにそのために必要であるということを心から理解したのではないでしょうか。
また、普段は小説読みなのでつい設定や脚本ばかりに注目してしまいますが、映画ならではの表現という点でもこの作品は卓越していると思います。
王女脱走のシーンや王女を見つけた際の秘密警察の挙動など、「動き」だけでシーンをダイナミックに演出する技術は映画ならではでしょう。
また、登場する下町のイタリア人が喋る極めて訛った適当英語も雰囲気づくりに大きく貢献しています。
漫画や小説では、わざわざ「訛っている」と地の文で書いたりだとか、様々な形容で表現しなければならないところを、この作品では一撃で、直接伝わってくるスピード感があります。
映像作品の強みをよく活かしていると感じました。
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